人はどう生きるか。

Ecclesiastes 3:11

それでも日本人は「戦争」を選んだ

 

 こちら、読みました

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

 結論から言うと、「なぜ戦争が起きたのか」に対する明確な答えは示されていません。

本書で示されているのは戦争に至るまでの時系列を整理し、経済的な側面を加え、事実を整理することで「なぜ」戦争が起きたのかを「考える」過程です。

 

数多くの大企業のコンプライアンス問題が噴出し、命運をかけた大事業は「得意分野」からくるおごりと一極集中により決定的なダメージをもたらす。組織の意思決定として、過度な楽観、現実を直視しない文化のようなものが日本の人々に染み付いているのでしょう。

 

 

最近の中国の台頭と日本の衰退のみに注目してはわからない、近代史の流れが以下のように紹介されています。

 

以下のレビュワーの引用


1894年の日清戦争の前はロシアが朝鮮半島を占領する可能性があり、そこを地政学上重要な地域と考えていた日本には脅威であった。日本は、大朝鮮国(のち大韓国)を“自主の邦”と呼びながらその植民地化を試み、清と戦争を開始する。


勝ったもののその後三国干渉を受け、ロシアが中国から旅順・大連の租借権と中東鉄道南支線の施設権を獲得する。これによりロシアの極東での不凍港の確保が可能になり、日本に韓半島を併合することでロシアの南下政策を阻止しようという戦略が生まれる。

 

また満州支配のために、同地域のロシアの占有を嫌う英米との関係を深める。日清戦争と同じく1904年の日露戦争もまた、日本(英米)対ロシア(独仏)という代理戦争である。これに勝った日本が獲得したものは、韓国(1910年併合)と英仏に約束した満州の門戸開放だった。

 

1914年の第一次大戦では、日本は比べものにならないほど軽い犠牲で戦勝国となり、ドイツ領であった山東半島南洋諸島を獲得した。日本の植民地支配は従来の列強のものと異なり、安全保障上の考慮によるものが大きかった。国際連盟1920年に設立され、植民地や保護国化は認められなくなった。

 

1923年から日本の主要な想定敵国は、アメリカ、ロシア、中国からアメリカ中心となった。イギリスも連邦であるオーストラリアやニュージーランドに近い南洋諸島への日本の進出は歓迎せず、アメリカ議会は、ウィルソン大統領の国際連盟加盟やモンロー主義変換の訴えに対して、日本の三・一運動を持ち出し批判した。こうした背景によるパリ講和会議の日本批判は、国内に重苦しい空気をもたらした。

 

1931年に関東軍により満州事変が起こる。1932年のリットン報告書には、日本の戦争の正当性のなさ、中国は清国の領土であることが明記された。熱河侵攻により新たな戦争を起こしたと見なされた日本は、国際連盟から除名/経済制裁を受ける前に脱退する。

中国を米英ソが支援していると捉えた日本は、仏印への進駐と東南アジアの資源確保を決める。ここのところは受動的に記述されることが多いが、日本の自律的戦線拡大でもあったと著者はいう。それはナチスドイツの快進撃により旧フランス領の東南アジア各国を日本領にできるという欲と、ナチのような一国一党の全体主義的国家支配への憧れであった。

 

日本が衝撃を受けたのは、この直後にアメリカが在米日本資産凍結と石油の全面禁輸を実行したことだった。しかし日本も37年からの長い日中戦争の中、対米戦争のための資金を貯め、軍需品を確保していた。ドイツは地政学的に共産主義の要塞である日本を選び、ソ連を捨てる。必然的にソ連と中国は連帯する。こうして日中戦争が第二次大戦の一部となった。

 

戦前、社会民主主義的改革の要求実現のための政治システムがないため、その推進者として軍部の人気が国民に高まっていた。このことは現代への教訓でもある。長谷部恭男は、戦争は相手国の主権や社会契約、即ち国家の憲法に対する攻撃という形を取ると述べている。つまり社会秩序とは憲法であり、戦前の憲法原理は國體であったろうと著者はいっている。

見方に異論もあろうが、中高生はもちろん社会人にとってもこの時代の日本の歴史を考察する上で、基礎的な知識を得られる好書でる。