人はどう生きるか。

Ecclesiastes 3:11

夜と霧

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夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 私たちが生きるこの社会では、多くの人々が絶えずストレスに晒されています。競争にさらされ、そこで抜け出したとしても待ち受けているのはその地位、能力を維持するための壮絶な努力です。

 

仮に、その生活を走りきり、50、60代で組織のトップに立ったとしてもなお、多くの人は自分の人生の意味を問い続ける現代において、一生変わらず自分の人生に意味を与えてくれるものはあるのでしょうか?

 

今回紹介する「夜と霧」はその問いに対して、1つの答えを提示しています。

第二次世界対戦下ドイツで精神科医を務めていた、V・E・フランクルの著書で、彼はユダヤ人であったことから、ナチス強制収容所で文字通り「地獄」のような生活を送ります。

 

あまりにも過酷な環境の中で、人間性を保ち続けようとする者、保つことができずどこまでも堕落していく者に分かれますが、筆者は生き残ったものに共通する特徴として「体力でも狡猾さでもなく、希望を持って人間性を失わずにいたか」を挙げていました。

 

このような本が書き残されたのは奇跡のようなものです。

 

最後の最後で自分に残り続ける価値観とは何か、本書から学ぶことは多いです。

「自分はどうありたいのか」を選択することは究極の自由で、自分の人生の価値を決める。

そう心に刻んで、これからも生きていきたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

量子革命

こちら読みました 

量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)

量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)

 

 量子力学、聞いたことありますか??

20世紀に入ってから台頭した物理の一大分野で、かのアインシュタインもこの分野の第一人者です。

一般的にこういった分野を研究はカッコよく見えたりするものですが、実際教科書などで勉強してみると幻滅したりします

 

自分も幻滅している状態でこの本を手に取ったのですが、やはり歴史などが好きな自分としてはこういった人物に焦点を置いた説明の方が圧倒的に理解ができます。

 

ハイゼンベルグ、パウリ、シュレディンガー、ボーア

 

当たり前のように教科書に出てくる天才たちがいかにしてそれぞれの研究を生み出していったのか、その流れが本書で示されています。

 

電子軌道とかスピンとか

 

教科書読むだけだとお経のように見えてしまう概念たちも、人物と結びつけられることで親近感が湧きますし、何よりどのように研究が積み重ねていかれたのかを理解できることは知識の定着を助けてくれます。

 

どの分野でも先進的な思考を持った人物は攻撃されうるもの。量子力学の分野でも同様です。伝統的な古典物理学者たちが新理論を携えた若者たちを攻撃する姿は、あらゆる分野に通ずるもので、人間の性みたいなものなのでしょう。

 

いずれにせよ、あまり量子力学について触れたことのない方にオススメです!

勉強している方にはなおさらオススメです^^;

 

意識はいつ生まれるのかーー脳の謎に挑む統合情報理論

 こちら読みました

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論

 

 本書では「意識」について取り扱っています

意識研究といえば従来は哲学的な思弁によるしかなく、とても科学的とは言いがたいものでした

 

しかしながら近年脳が(特に皮質において)ニューロンの集合体を基本単位とする構造を取っていることが解明され始め、簡単かつ似通った部品から以下に高次の機能が生まれるのか、議論されています。

 

簡単な部品からなっているのであれば、どこに機能を生み出す源泉があるのか

それが、ネットワーク理論へとつながります

 

本書ではネットワークの状態と意識の状態を対応させることで意識の状態を数学的に表現することを目標にしていて、その情報量として「Φ」を定義しており

 

また、ネットワークの結合性に関しては、0,1で決めつけるのではなく、強弱で表現していることから、意識が「あるない」ではなく「どれだけの強度か」という斬新な視点を提供しているのが本書の特徴です。

 

近年稀に見る神経科学情報科学の発展で、意識研究、人間とは何かといった問いかけがますます重要になっています。興味のある方は是非。

 

それでも日本人は「戦争」を選んだ

 

 こちら、読みました

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

 結論から言うと、「なぜ戦争が起きたのか」に対する明確な答えは示されていません。

本書で示されているのは戦争に至るまでの時系列を整理し、経済的な側面を加え、事実を整理することで「なぜ」戦争が起きたのかを「考える」過程です。

 

数多くの大企業のコンプライアンス問題が噴出し、命運をかけた大事業は「得意分野」からくるおごりと一極集中により決定的なダメージをもたらす。組織の意思決定として、過度な楽観、現実を直視しない文化のようなものが日本の人々に染み付いているのでしょう。

 

 

最近の中国の台頭と日本の衰退のみに注目してはわからない、近代史の流れが以下のように紹介されています。

 

以下のレビュワーの引用


1894年の日清戦争の前はロシアが朝鮮半島を占領する可能性があり、そこを地政学上重要な地域と考えていた日本には脅威であった。日本は、大朝鮮国(のち大韓国)を“自主の邦”と呼びながらその植民地化を試み、清と戦争を開始する。


勝ったもののその後三国干渉を受け、ロシアが中国から旅順・大連の租借権と中東鉄道南支線の施設権を獲得する。これによりロシアの極東での不凍港の確保が可能になり、日本に韓半島を併合することでロシアの南下政策を阻止しようという戦略が生まれる。

 

また満州支配のために、同地域のロシアの占有を嫌う英米との関係を深める。日清戦争と同じく1904年の日露戦争もまた、日本(英米)対ロシア(独仏)という代理戦争である。これに勝った日本が獲得したものは、韓国(1910年併合)と英仏に約束した満州の門戸開放だった。

 

1914年の第一次大戦では、日本は比べものにならないほど軽い犠牲で戦勝国となり、ドイツ領であった山東半島南洋諸島を獲得した。日本の植民地支配は従来の列強のものと異なり、安全保障上の考慮によるものが大きかった。国際連盟1920年に設立され、植民地や保護国化は認められなくなった。

 

1923年から日本の主要な想定敵国は、アメリカ、ロシア、中国からアメリカ中心となった。イギリスも連邦であるオーストラリアやニュージーランドに近い南洋諸島への日本の進出は歓迎せず、アメリカ議会は、ウィルソン大統領の国際連盟加盟やモンロー主義変換の訴えに対して、日本の三・一運動を持ち出し批判した。こうした背景によるパリ講和会議の日本批判は、国内に重苦しい空気をもたらした。

 

1931年に関東軍により満州事変が起こる。1932年のリットン報告書には、日本の戦争の正当性のなさ、中国は清国の領土であることが明記された。熱河侵攻により新たな戦争を起こしたと見なされた日本は、国際連盟から除名/経済制裁を受ける前に脱退する。

中国を米英ソが支援していると捉えた日本は、仏印への進駐と東南アジアの資源確保を決める。ここのところは受動的に記述されることが多いが、日本の自律的戦線拡大でもあったと著者はいう。それはナチスドイツの快進撃により旧フランス領の東南アジア各国を日本領にできるという欲と、ナチのような一国一党の全体主義的国家支配への憧れであった。

 

日本が衝撃を受けたのは、この直後にアメリカが在米日本資産凍結と石油の全面禁輸を実行したことだった。しかし日本も37年からの長い日中戦争の中、対米戦争のための資金を貯め、軍需品を確保していた。ドイツは地政学的に共産主義の要塞である日本を選び、ソ連を捨てる。必然的にソ連と中国は連帯する。こうして日中戦争が第二次大戦の一部となった。

 

戦前、社会民主主義的改革の要求実現のための政治システムがないため、その推進者として軍部の人気が国民に高まっていた。このことは現代への教訓でもある。長谷部恭男は、戦争は相手国の主権や社会契約、即ち国家の憲法に対する攻撃という形を取ると述べている。つまり社会秩序とは憲法であり、戦前の憲法原理は國體であったろうと著者はいっている。

見方に異論もあろうが、中高生はもちろん社会人にとってもこの時代の日本の歴史を考察する上で、基礎的な知識を得られる好書でる。

 

一神教の起源

 こちら読みました

一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか (筑摩選書)

一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか (筑摩選書)

 

一般的に、 一神教とは多神教が淘汰された結果、あるいはなぜなぜ思考の結果、一つの神を信仰するに至ったものとして、言わば宗教史上の進化論のようなものだと漠然と考えられています

 

しかし、一神教が生まれたのは古代イスラエルだけであり、他の地域ではその例を見ない事から、思想史上の必然とは言えません。一神教は決して進化論のような在り方で生まれたものでは無く、それは一人の天才的な宗教家による、宗教革命であったのだというのが、著者の主張です。

 

多神教の中の最高神一神教の違い

ユダヤ教以外の宗教は最高神を産みはしましたが、そこから一神教には至りませんでした。なぜユダヤ教だけが一神教たりえたか、という推理と論証を進めていきます。

 

唯一神の誕生にはイスラエルの繁栄と没落がその背後にあり、全能者であるヤハウェの神は虜囚となったイスラルの民にとって、戦いで勝利を約束する神から、人はヤハウェに対して如何にあるべきかと云う、生きること自体を問いかける神へと次第に変貌していく。それは既に現世利益とは全く別の、人としての存在を問う神が歴史上始めて誕生したのだと。

 

それがイエス・キリストに受け継がれ、世界宗教として発展していく源となる、その過程が資料とその解釈を紹介しながら描かれています。

 

人間と神は文明の初期において切っても切り離せない関係ですが、多くのアニミズム多神教が隆盛を極める中で唯一神信仰がひっそりと出現し、数千年で世界のおよそ半分を占めるまでに至るのは非常に興味深いです。

 

人間の脳の機能と信仰はある意味セットのようなものであるという考え方が、サピエンス全史等で指摘され始めているのは、私たちは何者なのかという問いに対して1つのカギを握っていると考えられます。

 

サピエンス全史 上

こちらよみました

 

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

去年の一躍有名になった本ですね。著者はヘブライ大学の方。ただ、この日本語版はヘブライ語→英語→日本語の順で間に1つ挟まれてしまっていることが残念。

 

サピエンスの歴史を動かす重大な要因の多くは、

法律

貨幣

神々

国民

といった共同主観的なもの

 

であるという視点が本書の最大の特徴

 

本の中で人間が編み出した上記のイメージを神話と呼んでいて

 

”そしてこの神話は宗教という直接的な形だけではなく、様々な社会制度という形で現代社会にまで続いていく。著者によれば民主主義や共産主義といった政治形態や、身分制度、通貨を基軸とする金融制度など現代の社会を構成する制度の大半は、客観的な現象ではなく、人類が共有する主観的なものだという解釈は斬新だ。”

 

ともレビューで言われていますね。

 

やっぱり、ここになるかな。
みんなで虚構?を信じる力がホモサピエンスを発展させた。
一方で、農耕革命で穀物しか摂取できなくなったり、人口増で食料足りなくなったりと文明化の欠点も現れたけど、世代を重ねるごとに後戻りできなくなる。

 

望むか望まないかは別として

 

私たちがどういった社会に行きたいのか、一人一人がどのような人生を歩みたいのか

 

今の時代、最も問われています。

しかしながら、資本主義社会の限界、国際秩序の変化、人工知能の発展などあまりにも刺激的な時代に生まれて本当に良かったですね。

西郷南洲遺訓

 こちらを読みました

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)

西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫)

 

 

 

 

来年のご存知の方もいらっしゃるとおもいますが、来年の大河ドラマは「西郷どん」です

今回紹介する本はその西郷どんがどのような思想を持って生きたのかを示す貴重な資料の1つ

西郷南洲遺訓

になります。

 

一般的に知名度もあり、人気もある西郷どん。しかしながら彼の思想を具体的に知る人は少ないのではないでしょうか?彼の偉大さがどこにあるのかを私たちに示してくれる一冊です。

 

彼の思想をもっともよく表す言葉として、「敬天愛人」があります。

天が何を指し示すかは彼の読んだ著作から探るしかありませんが、中国思想に見られる天の概念から来ていると一般には考えられています。一方で、当時の九州では外国人教師を通して多くの者が聖書を学ぶ機会があったため、そこから来ているのではないかという主張もあります

 

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

                                                                     マタイの福音書22章37〜39節にあるイエスの教え

http://www.christiantoday.co.jp/articles/2163/20080408/news.htm

 

おそらくはどちらも学んでいたことでしょう。

何にせよ、彼の思想は暴力的な当時にあって非常に寛大なものであり、西郷南洲遺訓をまとめたのが戊辰戦争で敗れ西郷の鶴の一声で恩赦された庄内藩藩士出会ったことからも見て取れます。

 

 

 

幾つか抜粋します

傲慢

歴史を振り返ると、絶対に成功しない政治家というのは、1つの性格が共通しています。

それは、「自分には欠点がない」と思い込んでいることです。

・・・

殊に、政治に携わるも・人々の上に立って導く者こそは、この自覚がきっと必要なのです。

 

おのれに克つ

「克己」、すなわち己に克つ

私利私欲の心、他人の忠告に耳を傾けないこと、他人を理解しない心

これらの心を消し去るのです

 

学問の目的

学問をする者は、大きな志を持たなければなりません。

それぞれの学問を目指す者は、自らが選んだ分野で大いに奮発してほしい。

・・・

さて、ここで1つ気をつけてほしいことがあります。こんにちの学問はその内容が複雑で深遠である。それゆえ学問にのめり込んんでいくと、いつしか、学び覚えるだけに心がとらわれて、ただ大量の書物を読んで覚えるだけを目的とする者がまま現れる。

書斎に引きこもってただ自己満足のためだけに学問をするようになってしまう、世の中に寄与せず、民の幸せを考えようともしない自分勝手な人間になってしまう。

・・・

学問を志すに当たって「克己」の修練をおろそかにしてはならない

 

天を相手にせよ

物事が上手く行かぬ時はどうしたって、腹が立ちます。

しかし、そのような心は未来に何ももたらさぬ。

そもそも、こうかんがえるのがよいのです。「人を相手にせず、天を相手にせよ」と。

おのれの行いは、他人を相手にしているのではない。天を相手にしているのだと。

 

始末に困る人

始末に困る人でなければ、国家の大事業を成し遂げることはできません。

名声にも、地位にも財産にも興味がない。それどころか、生きながらえることにさえ興味がない。

この世に道が行われること、正義が貫かれること、「始末に困る人」にとっての興味とは、この一事なのです。

 

「私利私欲を求めるより、道を求める方が断然楽しい。生きがいを感じる」

ーといった心境に至っている人なのです。